★C62ニセコ 追想★
今から36年前の1988年4月29日。「鉄路の奇跡」とも言われたC62型3号機の
復活があった。国鉄蒸機最大最速のC62が旧型客車を牽いて、ヘッドマークも付けずに
無装飾で、現役時代の舞台である函館山線に復活を遂げ、1995年までの8年間、
多くのレイルファンを虜にした。
昭和48年(1973年)7月末、私は函館本線、塩谷−小樽間のカーブを見下ろす
小高い丘に立っていた。
C62重連「急行ニセコ」の終焉には間に合わなかったが、C623が
単機で普通列車132レ・137レを牽いて小樽−長万部間を走っていると
当時の鉄道雑誌で知り、中学生ながら単身、C62に会いたい一心で
初めての渡道を果たしたのだった。
塩谷発9時37分、大いなる期待の中で名優の登場を待った。ところが待望の
C623が牽くはずの137レは無念にもD51の牽引であった。
後で聞いた話によるとC623は夏の間
苗穂工場に入場していたのだった。
インターネットもスマホもない時代、当時の情報はほぼ2ヶ月遅れ..。
かくして現役最後のC62に会うチャンスを逃し、撮れなかった悔しさと
C62への強い思いを残したまま時が過ぎ、
昭和51年3月、国鉄蒸気機関車はその終焉を迎えたのだった。
学生時代、ラグビーに夢中になった私の脳裏から、やがてC62は遠い
記憶の彼方へ消えていった。
C623を取り逃して14年の歳月が過ぎた昭和62年3月31日夜、
私は何気なくつけたテレビに釘付けになった。
まったく思いも寄らなかったC623が雪の中を走っている...。
国鉄最後の日のイベントの光景がテレビのニュースで放映されていたのだった。
まさか..生き返ったのか? 信じられなかった。過去の思い出が走馬灯のように
駆け巡り涙が溢れた。現役蒸機の終焉とともにカメラを持つことも、
時刻表を見ることも、鉄道雑誌を読むことすらなく、
完全に鉄道趣味と縁を切っていた私には、まさに青天の霹靂と言えた。
最大最強にして最速の蒸気機関車C62は、私たち蒸機終焉になんとか
間に合った世代にとって、夢であり、憧れだったが、
その豪快な走りは伝説でしかなかった。なんという奇跡か、
果たせなかった現実のものとなるのだ。
翌年、昭和63年のGWに「C62ニセコ」として運行を開始。私は6月初め、
鉄道雑誌から得たわずかな知識を元に13年ぶりの渡道を果たした。
鉄道雑誌の撮影ガイドを頼りに小沢駅に降り立ち、撮影ガイドの案内通りに
駅前からバスに乗って小沢−倶知安間の上平踏切、通称「ワイスのSカーブ」
に向かったのだった。
やがて定刻となり小沢駅発車の汽笛が聞こえ、しばらくしてブラストが近づいてきた。
汽笛と共にSカーブの奥から姿を現したC623は蒸機とは思えぬスピードと
圧倒的な迫力で眼前を通過した。伝説のジェット音を肌で感じた喜びに鳥肌が立った。
我を忘れて呆然と立ち尽くした。気が付くとレリーズを握りっぱなしだった。
列車が去っても10分近く心臓の鼓動が収まらず、
大袈裟でなく、感動で震えが止まらなかった。
これが私自身の人生をも変えたと言っても過言ではない、15年の時を超えた
C623とのファーストインプレッションだった。
かくして京都−小樽間1400キロにおよぶ山線通いが
始まった。何事にもハマると一極集中、凝り性な私は、すべてC623中心の
生活になっていった。C62の迫力、大きさ、スピード、山線の大自然に
魅せられ年を追うごとに渡道回数が増えていった。
(それに反比例するように運行日数は激減していくのたが)
山線で多くの友人と知り合い、特に常宿であった小沢駅前の「たけだ旅館」で
出会った仲間とは意気投合。お互い切磋琢磨し、最初の三年間でほぼ定番
と言われるポイントを撮り終えた私達は、見果てぬ俯瞰場所を求めて、
沢を越え、熊笹をかきわけ、尾根筋をたどり、ヒグマの存在を恐れつつも、
いくつもの山へも登った。
人と違うポイント。まだ見ぬアングルを求め、朝の小樽築港での出庫風景から
ニセコヘの往復、深夜の小樽築港への入庫まで、一心不乱にC623を追い求めた。
特に私達を魅了したのは返しの(下り列車)の稲穂峠から見下ろすアングル
だった。それは羊蹄山やニセコ連山をバックにしたスケールの大きい日本離れした
光景だった。稲穂嶺を中心とする稲穂峠には北海道電力の送電線やNTTの
アンテナがあり工事や保守用の林道が縦横無尽に走っていた。
ゴールデンウィークの頃の運行では、残雪が多く車でのアプローチが不可能で
延々林道を2時間歩いて決死の思いで撮影ポイントへ到達したものの、
大した成果が得られなかった苦い思い出もあるが、夏と秋には車で林道へ入る事が
可能で、特に私達のお気に入りだった「稲穂大俯瞰」には何度も通ったものだ。
しかし晴れれば斜光線が素晴らしい光景を醸し出す秋の運転には、決まって直前の
「撃沈雲」に遮られ一度も満足行く結果を残せなかったのは
今思っても悔しい限りである。
C623運行の8年間で、いや今までの人生の中でも最もエキサイトしたのは
忘れもしない1991年11月4日。
その日は朝から待望の雪となり、上り9162レは倶知安峠で空転を繰り返し自然停車。
停車直前の「ワイスのSカーブ」では現役の常紋を彷彿させるような立ち煙の超爆煙、
目の前での空転に、私達をこれ以上ない興奮状態に陥れた。
更に返しの下り9163レは、雪はやんだものの、この時期の北国の早い日没がもたらす
強烈な斜光線による演出と気温低下による爆煙が絡み、暗黒の世界に半逆光の煙が
輝くという、おそらく二度と撮れないであろう、なんとも不思議な迫力のある作品をモノ
にする事が出来た。
「C62ニセコ号」こそが、イベント列車である事を忘れさせた「本物の汽車」であり、
私達の追い求めた「国鉄の残照」に他ならぬものであった。
運行に携われたすべての人々に、今でも感謝の気持ちでいっぱいである。
C623運転休止からすでに四半世紀を超え29年。時は移ろい世の中も随分
変わり、JR北海道は今試練に立たされている。C623は苗穂工場の
片隅で冷え切った巨体を横たえたまま。山線の廃止が決定した現在、3たびの
復活は到底叶わぬ、儚い夢なのか...。
( RailMagazine vol.141.146.200.417 国鉄時代 vol.17 寄稿文より抜粋、再編集)